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2007.06.29 [Fri] + Photogragh +
世界を変えた報道写真Ⅱ

世界を変えた報道写真Ⅰのツヅキ


ウィンストン・チャーチル [1941]

churchillop2.jpg
By Yousuf Karsh


カナダの写真家Yousuf Karshn氏が撮影したこのチャーチルの写真は、 歴史を色濃く映し出している一枚として国際的に高い評価をうけ、Life誌の表紙を飾った。>> 動画


サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill,)は、イギリスの政治家である。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相として困難な時期に強い意志と楽観主義をもって憔悴したイギリス国民を激励。戦意を保ち、軍事戦略を立案し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相として返り咲く。1946年、ミズーリ州で行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン(Iron Curtain)」演説を行い、アメリカ・ソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。1965年1月24日に病没した際には、平民のためとしては史上初となる国葬によって葬られた。
2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。(一方でこんな記事も。)
Wikipediaより


チャーチルは文才に秀で、ユーモアやウィットのセンスも広く知られているところです。第二次世界大戦後に執筆した「第二次世界大戦回顧録」は高い評価を受け、1953年にノーベル文学賞を受賞しています。またチャーチルによる名言も数多く残されています。
以下はあたしのお気に入り。

『絶対に屈服してはならない。あきらめてはいけない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に。』

『向上とは変化することである。完璧とは変化し続けることである。』

『危険が身に迫ったとき、逃げ出すようでは駄目だ。かえって危険が二倍になる。しかし決然として立ち向かえば危険は半分に減る。何事に出会っても決して逃げ出すな。決して!』


☆チャーチルの演説に関するリンク

・“政治家のスピーチ・ライターならば、一度は書いてみたいようなものばかりである”という感想と共に、雪斎の随想録でチャーチルの演説の一部が原文+対訳で紹介
チャーチルの反戦論にはロイドジョージ内閣の下陸軍大臣となった時に書いた反戦論の全文あり(和訳済)
西洋軍歌蒐集館に、ウィンストン・チャーチル演説「我らは断じて降伏しない」
1940年6月4日下院にて(音声資料、対訳あり)
・かの有名な「鉄のカーテン(Iron Curtain)」演説(原文+音声資料):
Winston Churchill and the Sinews of Peace Address
・チャーチル演説集(英語音声):Churchill Speech Interactive

こんなのもありますよん。
BBC ヒストリー・オブ・ブリテン #15[Yahoo!動画]
「ウィンストン・チャーチルとジョージ・オーウェル」(00:59:41)

オマケ:チャーチルのオウムがまだ、ヒトラーを呪詛している!?



アルベルト・アインシュタイン [1951]

alberteinstein1951hy8.jpg
By Arthur Sasse


アルバート・アインシュタインは世界中でもっとも有名な人物の一人だろう。彼は20世紀初頭まであらゆる物理学の根本を為すとされていたニュートン力学に真っ向から挑戦し、相対性理論を打ち立てた天才である。
一方、人として、彼は“beatnik(=反体制、反骨精神主義)”であったと言われており、1951年3月14日にとられたこの写真はまさにそれを証明してるといえるだろう。 >> 動画

アインシュタインについて詳しく知りたい方には「アインシュタインの科学と生涯」のページがオススメ☆アインシュタインがどうやって彼の理論を作り上げていったのか、彼の科学・思想・価値観とは何か、そして家族や恋人との関係から見える彼の人間像とは・・・。特に“アインシュタインってどんな人?”の項目で書かれているアインシュタインの長所・短所の記述はおもしろい。


彼には孤高癖があった---アインシュタイン曰く「私は、単独で走る装備をつけた馬のようなものです。二頭だてや集団はだめなんです」彼は科学者としては孤立的であった。そして、おそらく人間的にもそうだった。


またWIREDNEWSで天才アインシュタインの全貌に迫るサイトがいろいろ紹介されています。中でも900点を超える学術論文や手紙などを一般に公開しており、世界で最も魅惑的な精神の持ち主だったアインシュタイン(写真)の思想や感情を細かくたどることができる『アインシュタイン・アーカイブ・オンライン』は必見の価値あり。

長崎市への原子爆弾投下 [1945]

nagasaki1945ur.jpg

甚大なエネルギー量の爆発だったことを示す『きのこ雲』の写真


1945年8月9日午前11時2分、長崎の街に一発の原子爆弾が投下されました。猛烈な爆風、熱線、放射線によって、73,884人の方が亡くなり、74,909人の人が傷を負い、街は壊滅的な被害を受けました。被爆地長崎の市民は、原子爆弾・核兵器がもたらす被害、悲しみを経験するのは、長崎を最後にしたいと願っています。
長崎平和宣言 "The Nagasaki Peace Declaration"より


>> 動画



広島市への原子爆弾投下 [1945]

アメリカ人のみならず、誰もが知っている広島の原爆投下そしてグラウンド・ゼロ

実際、そこでは何が起こったのか・・・。
その答えはここにある。

bombeb2.jpg
空からの撮影写真

p_002.jpg
地上からの撮影写真


>> 動画① / 動画②

忘れてはいけない過去がある。
そこにあるのはただ戦争がもたらす光景と平和への祈りなのでは。

戦争っていえば大げさに響いて、とたんに現実感を失ってしまうけれど
自分の愛する人が、愛する家族が、一瞬にして悲劇に巻き込まれ、希望をなくし、命さえ落としていく痛みを想像してみてください、といえば
少しは伝わるものがあるのかね?

戦争を語り継ぐ60年目の証言
特に寺田 修一さん(長崎 当時14歳)の枯れない涙(被爆体験記)はぜひ読んでみてください。そのときの情景や気持ちが丁寧に綴られています。長文ですが、文章に引き込まれて一気に読んでしまいました。

東京大空襲 史上最大の虐殺
一瞬にしてすべてが炭と化した現実がそこにはあります。



ニューギニアの戦い [1943]

beachpc3.jpg
By George Strock


1943年9月20日のパプア・ニューギニアのビーチで撮影された写真。そこには3人の若いアメリカ兵の死体が写っていた。Life誌はこのGeorge Strock氏の写真を見開きフルページで掲載し、人々に衝撃を与えた。そのページにはこんなコトバが添えられていた。

『どうしてこれら3人のアメリカ人青年たちは外国の浜辺で死ななければならなかったのだろうか?』---その理由は?---『とても言葉で言い表しきることはできない』

>> 動画



ブーヘンヴァルト強制収容所 [1945]

Buchenwald+1945.jpg


Wein, Weib und Gesangさんの記事にブーヘンヴァルト強制収容所について記述があるので引用させて頂きます。


・・・この収容所も上の規模には劣るが、ガス室を除いて全てが完備していた。ここでプロトタイプとして考案され駆動した焼却炉が上でも使われた。今も残る焼却棟の一階は、検死ならびに金歯や皮革の採取場となっており現在も綺麗な形で保存されている。そこから地下へ落とされて死体は処理された。屠殺場然としたその地下では、婦人・子供を含めて1000人以上がそこのホックに吊るされて殺害されている。この収容所の特徴として、親衛隊基地設置に続き1938年以降ユダヤ人以外に自国のみならず欧州中の共産主義者を含む政治犯から活動家、宗教家、同性愛者、精神障害者までが、また軍属捕虜が収容されていた。後年は、ダッハウからここへ、もしくは東部戦線撤退準備に備えてアウシュヴィッツからここへとジプシーならびにユダヤ人が送り込まれた。フランス政府関係者やヒトラー暗殺計画の家族などもVIP用の邸宅が与えられ拘禁された。・・・


George Patton の軍がブーヘンヴァルト強制収容所を解放したとき、そこでは4万3000人ものユダヤ人が殺されていた。これに激怒したPattonは部下に命じてドイツの一般市民にキャンプ中を行進させ、彼らの国家がいったい何をしでかしたのかを直に見せつけたのだ。 >> 動画

ナチスのブーヘンヴァルト収容所、解放61周年 - ドイツ(c)AFP/ERIC SCHWAB
リンク先には『連合軍によるブーヘンヴァルト強制収容所解放後、診療所へ向かう衰弱しきった囚人たち』など、関連写真が2枚あります。



アンネ・フランク [1941]

annefrankkl2.jpg


1941年、アムステルダム。第二次世界大戦下においてナチス政権が勢力をふるい、歴史の上に暗い影を落としていった。過酷な運命の渦に巻き込まれながらも常に自由への希望を持ち続け、短くも激しい生涯を生きた少女ーーーアンネ・ フランク。ゲシュタポの目を逃れるために家族と屋根裏生活を暮らし始めた少女は、その日々を"キティー"と名づけた日記に綴りはじめる。
2年間もの極秘生活を経て、ついに1944年に強制収容所に送られるまでを記したといわれるアンネの日記が死後に出版されると瞬く間に世界的なベストセラーとなり、人々はいかにその“戦争"が過酷で残忍であるかを知った。

アンネの日記とともに有名になった古い写真の中で、14歳の少女は謎めいた表情を浮かべ、決して訪れることのない未来の先を大きな瞳で見つめている。 >> 動画


『アウシュビッツに消えていた子供たちの遺作展』より詞をひとつ紹介。


  詩「わたしはひとりで行きたい」

   私はひとりで行きたい
   どこか別の よい人たちの住むところへ
   どこか 知らないところへ
   だれも人を殺したり しないところへ
   夢に見ていた その目的地に
   行きつくことが できるかもしれない
   おおぜい もしかしたら1000人もの人が
   行きつくことが できるかもしれない
 
          ーーー アレナ・シンコバー(生存)


世界を変えた報道写真Ⅲへツヅク。


[source]



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