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2012.08.04 [Sat] + kotomoの中の人 +
日本花火 江戸時代の花火と浮き絵と両国川開き

いかにして火薬が燃焼するだけの化学反応から美をまとった煙火(えんか)芸術へと昇華させていったのか―――。

興味をもってしまったのだからしかたがない。
まずは日本の花火の歴史からお勉強デス。


■ 日本花火の歴史 ~江戸の花火まで


1543年、漂着したポルトガル船より、種子島に鉄砲伝来。鉄砲とともに火薬が日本に伝えられた。日本の花火の歴史はココよりハジマル。

花火そのものが初めて記録に登場するのは、1585年の夏、皆川山城守と佐竹氏が現在の栃木件で対陣したとき、慰みに花火を焼き建てた、と『北条九代記』にて。その後もいくつかの記録に武器としてではない花火の使用を確認することができる。たとえば1581年正月15日には織田信長が祝賀の行事として、安土城下で馬揃えを行い、爆竹(花火の一種)を使用した、等。そして江戸時代になり、1613年に徳川家康が花火上手の唐人が駿府城の二の丸で上げた花火を見物すると、それをきっかけに一気に将軍家や諸大名の間で娯楽としての花火が流行していったという。

ときは3代将軍家光のころ。大和国(奈良県)に弥兵衛という者アリ。もとより三男坊の弥兵衛は五條の火薬工場へと奉公に出ていた。そこで火薬扱いの技術を身に付けた弥兵衛は、吉野川の川原に多く生えている葦の茎に火薬や火薬球をつめ、手持ちの吹き出し花火を考案、「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出したところたちまち評判となり飛ぶように売れていったという。そして江戸での花火の流行を聞きつけた弥兵衛は行く先々で花火を売りつつ江戸に出て、1659年、日本橋横山町にて「鍵屋」の看板を掲げた。花火業者の活躍時代のはじまりである。

弥兵衛は上京からほどなく幕府御用達の花火師になったいうのだから大したものである。一躍人気の花火業者となった。以降、日本橋の「鍵屋」はその人気を博したまま代を重ねてゆく。


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■ 両国川開と「玉屋」「鍵屋」時代の到来


  「花火屋の正一位なり鍵と玉」


1733年、前年の大飢饉とコレラの大流行により大量の死者が出ると、8代将軍吉宗は慰霊、悪疫退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭を催し、それにあわせて大花火が披露された。これがいわゆる両国の川開き――これが隅田川花火大会の発祥といわれている――である。川開きとは納涼期間の始まりの日という意味で、当時は両国川開きが行われた5月28日から3ヶ月間、納涼舟の舟遊びと共に、毎夜さまざまな花火が六代目鍵屋弥兵衛によって打ち上げられたという。

そうして八代目鍵屋のすぐれた番頭であった清七(のちに市兵衛と改名)が独立して「玉屋」を起こし、「鍵屋」と「玉屋」が互いに技を競い合い、趣向を凝らすようになると、いよいよ両国川開きの花火の大盛況はピークをむかえる。いわゆる「玉屋」「鍵屋」時代である。

両者は両国橋をはさんで上流では玉屋が、下流では鍵屋が陣取り、納涼舟や水茶屋の客がこれにお金を払って花火を打ち上げさせたというのだから、花火好き、勝負好きの江戸っ子たちが熱狂しないわけもなく。有名な「たまや~、かぎや~」の掛け声は、観客たちがひいきの花火屋の花火が上がるたびに送られた、声援や歓声のようなもの。「いいぞ玉屋」「まけるな鍵屋」という具合に。


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しかし、1843年、玉屋から出火。店のみならず、吉川町一帯を半町(約1500坪)ほど類焼させてしまう。当時、失火は重罪であり、また偶然将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったため、玉屋には財産没収、市兵衛は江戸追放という厳しい処分を受け、玉屋は断絶してしまった。結局一代、玉屋市兵衛30年しか存在せず、川開きで技を競った期間は20年あまりであった。


   *   *   *


なんともあっけない終わりだったものの、当時は鍵屋より玉屋の方が人気があったといいます。「橋の上、玉屋、玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋と言わぬ情(じょう=鍵屋の「錠」とかけている)なし」「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」などという歌ものこっており。そもそもはいかに熱心な花火研究をつづけていたとはいえ、たかが一番頭が異例中の異例として独立を許され、しかもその独立資金さえ鍵屋から援助を受けていたというのだから、この玉屋市兵衛という人物の才能は推してはかるべし。天才花火師だったそうです。そして鍵屋の懐の大きさもすばらしい。それだけに、この玉屋の没落は残念ですね。


■ 江戸の花火と浮世絵


さて、江戸時代の花火は、どんな色彩だったのか。「たまや~、かぎや~」の掛け声もにぎやかな時代だからさぞや多彩なものだったろうという思いとは裏腹に、実は意外にも赤橙色一色の花火だったというから驚きである。当時の花火は、硝石(硝酸カリウム)、硫黄、木炭を原料とした黒色火薬系でだった。色はというと、燃焼温度が低いため、炭が萌えるときの赤橙色しか出せなかった。しかしその条件の中でも、花火師たちは木炭の種類を使い分けて色の濃淡をだしてみたり、「ねずみの糞」をはじめとして色々な物を加えて色合いを多少変えてみたり、さまざまな工夫を凝らしていくのである。


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《名所江戸百景 両国花火》歌川広重


誕生当初は「のろし」のような単純な一本の光の線にすぎなかったという花火も、先人たちのたゆまぬ努力のおかげで、次第にそのバリエーションを増やしていったことだろう。そのことは浮世絵に描かれた花火を見ることによって確認することができる。


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《江戸自慢三十六興 両こく花火》歌川豊国、歌川広重

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《東都名所之内 両国花火》歌川広重

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《両国夕納涼之図》歌川国貞(三代豊国)

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《東都両国夕涼之図》歌川貞房

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《東都両国橋 川開き繁栄図》歌川豊国


ところで、夜空に浮かんだ花火とそれを見物する人々を描いたものには、上記のように大判錦絵三枚続となっているものも少なくない。空間が横長に切り取られることにより、いっそう人々の熱狂や高揚、夜空を制する花火の迫力がつたわってくる気がする。


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《両国花火之図》歌川豊国

こちらはなんと、横三枚、縦二段の六枚一組図。しかし花火もさることながら、目を奪うのはたくさんの人・人・人。川面は見物客をのせた納涼舟で埋めつくされ、こと両国橋の上はどの絵をみても人がまるで・・・・・・うへえ。


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《東都名所両国夕涼の図》 国郷

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《東都両国ばし夏景色》橋本秀貞


当時、船遊びは裕福な武士や町人のみに許された贅沢な遊びだった。それは「一両が花火間もなき光かな」と詠われるほどであり。さぞや川岸からうらやましく眺めていた人も大勢いたことだろう。

とはいえ、庶民も金持ちも関係なく、どの場所からも無料で見ることのでき、それが夏の3ヶ月間毎晩のようにつづくとあれば、それ見たさに人々が集まるのは当然といえよう。両国広小路には見せ物小屋や屋台や涼み所が出来て賑わい、一晩に一千両が落とされたとも。



・・・むかしから現在にいたるまで、人々は夏の夜空に打ち上がる火の華に魅せつづけられてきたんだなあ。。
え、風俗画だから多少の強調があるにちがいないって?

いやいやそんなことはございません。


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1951年7月21日の新聞記事 *click to enlarge*

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昭和30年代の両国川開きの様子



「両国橋が大変混雑しています。押さないでしばらくお待ちください」





・・・・・・これはまさかアレなのか、そうなのか。





で、こうなる。





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《両国橋欄干折損の図 『風俗画報』明治30.9》山本駿次朗
(時期が昭和、明治と前後してしまうのは多めに見てね(はぁと))

明治30年8月10日に川開きの花火で賑わう木製の両国橋の欄干が群集の圧力で折れ、数十名の死傷者を出した(その7年後にあたらしく鋼製の橋として架けなおされた)。その事故の様子を報道画家の山本松谷が描いたのが上の絵だという。
 
 
「両国橋欄干折損の図」につけられた記事の概略は次のようなものだ。

八月十日は朝から快晴で、夕刻から花火見物を兼ねた納涼客が、ぞろぞろと両岸に集まってきて、花火の始まる時刻には、大川筋から両岸の町並みは、それこそ身動きならぬ混雑で、中でも両国橋上の群集は、まさに溢れんばかりに押寄せ押戻してひしめきあい、数十名の警察官が、東西への往来路を開こうとして懸命の整理に当っていた。
事故の起きたのは、花火開始から一時間余り経った午後八時三十分頃で、橋の中央部からは西岸寄り、南側の欄干が不気味な軋みを立てて折れはじめ、およそ九メートル程の間がどっと破れて、そのあたりに密集していた人もろとも川に転落した。(中略)
当日は、水上警察署の警備艇「快明丸」が、十隻ばかりの小型ボートを曳行して、日の暮れる前から川を上下して、不測の事態に備えていた。(中略)
事故の発生と共に、川に転落した五十人ばかりの中から、女性や子供、泳ぎのできない人々十数人の犠牲者を出したが、水上艇快明丸の迅速な活動や、現場近くに居合わせた遊山船、船宿の伝馬船、あるいは、たまたま橋下に係留していた浅草聖天町杉野利吉、埼玉県戸崎村内田彦蔵らの肥船が漕ぎ廻って、二十数人を救いあげた。

[Clocks & Clouds: 両国橋欄干折損の図]



十数人の犠牲で済んだことは不幸中の幸いなのかもしれないなあ。
いやね、ほんと花火大会の人ごみはこわいねって話ですよ。(そうだったっけ?)




タブンツヅク




関連リンク
 >> 江戸東京博物館 特別展「隅田川~江戸が愛した風景~」
 >> 五條市HP 花火文化と鍵屋弥兵衛
 >> 『両国の川開き』 想い出語り:隅田川花火大会スペシャル第一話から現在第六話まで。豊富な写真とともに当時を振り返る女将の思い出の数々は必見!
 >> 隅田川花火大会公式HP - 昭和の花火大会昭和30年代の両国川開き

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