オレンジのR+ //
2012.10.11 [Thu] + kotomoの中の人 +
金魚の美と「上見」

遠いむかしの記憶である。
親戚の家の玄関先で話し込む母親の横で、いつもの様に靴箱のうえに置かれた水槽を退屈しのぎにながめていた。



ranchu_GF.jpg



なんでわざわざあんな金魚をかってるんだろう。
頭はでこぼこでへんだし、からだはずんぐりむっくりだし、そのわりにひれだってちいさいし、なにがいいのかぜんぜんわかんない!

その金魚がランチュウだということは知っていた。はじめて見たとき頭が腫れあがる病気にかかっているんじゃないかと心配になり、思わず親戚の服のそでをつかんで、「あれは病気なの?みんな病気になっちゃったの?」と尋ねたからである。そして、ランチュウという種類で病気ではないことには安堵したが、つづく「金魚の王様なのよ。とっても高いんだから」の言葉にひどく驚いた。

おうさま?あのかっこわるい金魚が?なんで?

少し得意げな顔の大人を前にしてその事を口にすべきでないことはわかったが、幼心にそれを納得できるだけの理由を見つけることはできなかった。



そう、わたしは幼かったのである。





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2012.09.11 [Tue] + kotomoの中の人 +
マドンナ・リリー

白いユリの花。花言葉は『純潔・威厳・無垢』。

「純潔」を表わす花、あるいは「聖母マリア」の象徴としてキリスト教と深いつながりを持つ花である。貞節と美徳のシンボルでもあり、聖母マリアの受胎を告知した大天使ガブリエルにも捧げられている。
―――別名、マドンナ・リリー。聖母マリアの花。




■ 種としてのユリ


北半球のアジアを中心にヨーロッパ、北アメリカなどの亜熱帯から温帯、亜寒帯にかけて広く分布しており、原種は100種以上、品種は約130品種を数える。その色、形、薫り……。本当に驚くべきほどたくさんのユリが存在しているのだ。日本には15種があり、うち7種は日本特産種。これは世界的に見てもとても多い。そのため日本はユリの宝庫と呼ばれている。

 >> 【図鑑】世界のユリの種類の画像一覧、全集 - NAVERまとめ
 >> 伊勢志摩ゆりパーク 種類:その数なんと91種類!眼福なり。

野生種でさえ、他の観賞花をしのぐほどの美しさを持ち合わせていたことから、意外にもその品種改良の歴史は浅いと言われているユリの花。19世紀にはいって日本から日本原産のユリが持ち込まれると次々に新しい品種が生み出された。


たとえば、オリエンタル・ハイブリッドである「カサブランカ」の登場は世界中でセンセーションを巻き起こした。その美しさ。その華やかさ。その薫り。その気品。そのたたずまい。すべてが『ユリの女王』の名にふさわしく。


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Casa Blanca By wendymerle




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2012.08.06 [Mon] + kotomoの中の人 +
日本の花火 花火の種類 〜お手軽打ち上げ花火鑑賞マニュアル

さてさて。江戸の花火が天才花火師たちの登場によりいかに華やぎ人々を魅了したものであったとしても、それは単に一色の花火にすぎなかった。現在のような色鮮やかな花火がつくられる様になるのは、明治時代にはいり、欧米の薬剤が輸入され、使われるようになってからである。花火の世界では、江戸時代の花火を「和火」、明治期以降の花火を「洋火」と読んで明確に区別しているほど。


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雌雄芯引先変化光露 By ELCAN KE-7A


前回話したように、江戸の花火(和火)では主に黒色火薬がつかわれていたが、これだと燃焼温度が約1700度ととても低く、酸化金属の燃焼までにはいたらなかった。ところが1786年により強い酸化剤である塩素酸カリウムが発明され、燃焼温度も約2200度までの上昇が可能になると、「洋火」と呼ばれる華やかで色とりどりの火の花がつぎつぎと開発されていったのである。



■ 炎色反応と洋火


リアカー無きK村、動力借りようとするも、くれない。馬力にしよう。
 Li:赤 Na:黄 K:紫 Cu:緑(青緑) Ca:橙 Sr:紅 Ba:緑(黄緑)


おなじみ、炎色反応のゴロ合わせでございます。なつかしいなあ。


「化学とは花火を造る術ならん」。かの夏目漱石はこう詠んだ。
花火のあの数々のすばらしい色彩は炎色反応を利用したものである。通になると、花火のデザインや花ひらくタイミングはもちろん、花火の色をみてその煙火業者を見分けることができるというからすごい!薬剤の微妙な配合による独自の色は職人たちの腕のみせどころだそうで、基本的にその交配レシピは門外不出であり、一子相伝で受け継がれていくのだ。

ところでいま目にする花火の色彩バリエーションはそれはそれは豊富であり、いったいどれほどの種類の金属がつかわれているんだ・・・と思いきや、実はそんなにたくさんは必要ないのである。――なぜか?

そう、光の三原色を思い出してほしい。基本的に三色あれば(理論上は)すべての色が表現できるのだ。
「煙火の花道 - どうやって花火の色をだすの?」では実際に使っている主な元素として『赤色:ストロンチウム、青色:銅、黄色:ナトリウム、緑色:バリウム』の四種をあげている。その上さらに「水色・ピンク・レモン色・オレンジ」を作るためにはどの元素を組み合わせればよいか?」というクイズ付き。ぜひ考えて挑戦してみてほしい!(マウスのカーソルをあてると答えが現れます)おもしろいー



■ 青木多門氏の功績


ところで、酸化剤として塩素酸カリウムを用いていた当初は花火の発火爆発事故が絶えなかったという。そこで一肌ぬいだのが青木煙火店の二代目、青木多門氏である。


塩素酸カリウムは、もとはマッチの原料として明治のはじめに日本に入ってきた薬品で、のちに花火の原料として盛んに使われるようになるのだが、少しの摩擦や衝撃で発火してしまう欠点をもっていた。

二代目多門氏は、安全な花火のための調合の改良に取り組む。そして「塩素酸カリウム」の代わりに「過塩素酸カリウム」への使用へと到達した。それによって花火は、明るく美しい色彩を出すとともに、より安定した品質のもとへと進化することができたのである。

多門氏の偉大さは、そのあとにある。自ら開発した安全な火薬の配合を公開したのだ。技術の秘蔵が常識だった職人の世界にあって、これは異例なことだ。1975年には、自らが常任理事を務める日本煙火協会の「塩素酸カリウム追放キャンペーン」のために全国をまわり、調合の仕方を講習し、花火師たちを直接指導したという。[…]

『日本の花火はなぜ世界一なのか?』 泉谷玄作


なんかね、日本の花火をしらべていけばいくほど、偉人たちの努力や逸話がごまんと出てくるから困る。それら職人たちの地道な努力と花火の発展を知るにつけ、さらに知りたくなってしまうのだからたまらない。いいぞもっとやりたまへ。(命令形)



Tags // 花火

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2012.08.04 [Sat] + kotomoの中の人 +
日本花火 江戸時代の花火と浮き絵と両国川開き

いかにして火薬が燃焼するだけの化学反応から美をまとった煙火(えんか)芸術へと昇華させていったのか―――。

興味をもってしまったのだからしかたがない。
まずは日本の花火の歴史からお勉強デス。


■ 日本花火の歴史 ~江戸の花火まで


1543年、漂着したポルトガル船より、種子島に鉄砲伝来。鉄砲とともに火薬が日本に伝えられた。日本の花火の歴史はココよりハジマル。

花火そのものが初めて記録に登場するのは、1585年の夏、皆川山城守と佐竹氏が現在の栃木件で対陣したとき、慰みに花火を焼き建てた、と『北条九代記』にて。その後もいくつかの記録に武器としてではない花火の使用を確認することができる。たとえば1581年正月15日には織田信長が祝賀の行事として、安土城下で馬揃えを行い、爆竹(花火の一種)を使用した、等。そして江戸時代になり、1613年に徳川家康が花火上手の唐人が駿府城の二の丸で上げた花火を見物すると、それをきっかけに一気に将軍家や諸大名の間で娯楽としての花火が流行していったという。

ときは3代将軍家光のころ。大和国(奈良県)に弥兵衛という者アリ。もとより三男坊の弥兵衛は五條の火薬工場へと奉公に出ていた。そこで火薬扱いの技術を身に付けた弥兵衛は、吉野川の川原に多く生えている葦の茎に火薬や火薬球をつめ、手持ちの吹き出し花火を考案、「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出したところたちまち評判となり飛ぶように売れていったという。そして江戸での花火の流行を聞きつけた弥兵衛は行く先々で花火を売りつつ江戸に出て、1659年、日本橋横山町にて「鍵屋」の看板を掲げた。花火業者の活躍時代のはじまりである。

弥兵衛は上京からほどなく幕府御用達の花火師になったいうのだから大したものである。一躍人気の花火業者となった。以降、日本橋の「鍵屋」はその人気を博したまま代を重ねてゆく。


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■ 両国川開と「玉屋」「鍵屋」時代の到来


  「花火屋の正一位なり鍵と玉」


1733年、前年の大飢饉とコレラの大流行により大量の死者が出ると、8代将軍吉宗は慰霊、悪疫退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭を催し、それにあわせて大花火が披露された。これがいわゆる両国の川開き――これが隅田川花火大会の発祥といわれている――である。川開きとは納涼期間の始まりの日という意味で、当時は両国川開きが行われた5月28日から3ヶ月間、納涼舟の舟遊びと共に、毎夜さまざまな花火が六代目鍵屋弥兵衛によって打ち上げられたという。

そうして八代目鍵屋のすぐれた番頭であった清七(のちに市兵衛と改名)が独立して「玉屋」を起こし、「鍵屋」と「玉屋」が互いに技を競い合い、趣向を凝らすようになると、いよいよ両国川開きの花火の大盛況はピークをむかえる。いわゆる「玉屋」「鍵屋」時代である。

両者は両国橋をはさんで上流では玉屋が、下流では鍵屋が陣取り、納涼舟や水茶屋の客がこれにお金を払って花火を打ち上げさせたというのだから、花火好き、勝負好きの江戸っ子たちが熱狂しないわけもなく。有名な「たまや~、かぎや~」の掛け声は、観客たちがひいきの花火屋の花火が上がるたびに送られた、声援や歓声のようなもの。「いいぞ玉屋」「まけるな鍵屋」という具合に。


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しかし、1843年、玉屋から出火。店のみならず、吉川町一帯を半町(約1500坪)ほど類焼させてしまう。当時、失火は重罪であり、また偶然将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったため、玉屋には財産没収、市兵衛は江戸追放という厳しい処分を受け、玉屋は断絶してしまった。結局一代、玉屋市兵衛30年しか存在せず、川開きで技を競った期間は20年あまりであった。


   *   *   *


なんともあっけない終わりだったものの、当時は鍵屋より玉屋の方が人気があったといいます。「橋の上、玉屋、玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋と言わぬ情(じょう=鍵屋の「錠」とかけている)なし」「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」などという歌ものこっており。そもそもはいかに熱心な花火研究をつづけていたとはいえ、たかが一番頭が異例中の異例として独立を許され、しかもその独立資金さえ鍵屋から援助を受けていたというのだから、この玉屋市兵衛という人物の才能は推してはかるべし。天才花火師だったそうです。そして鍵屋の懐の大きさもすばらしい。それだけに、この玉屋の没落は残念ですね。



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