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2017.09.04 [Mon] + Art/Design +
映画『セザンヌと過ごした時間』の試写会へ

映画『セザンヌと過ごした時間』の試写会にいってきました。
知られざる、ふたりの芸術家の友情物語です。

以下の感想では、一部映画の内容にも触れますので、ご注意ください。




映画は、1888年に小説家として大成したエミール・ゾラを、いまだ目の出ない画家ポール・セザンヌが訪れるシーンからはじまります。ひさしぶりの再会を喜びつつも、どこか複雑な表情を浮かべるふたり。ふたりを包む空気にはぎこちなさが漂います。いったい、何があったのか。


ゾラとセザンヌとの出会いは少年時代までさかのぼります。ゾラはイタリア系の貧しい母子家庭暮らし。周囲から格好のいじめの的となります。そんなゾラをかばい守るセザンヌ。そのお礼にと、ゾラは籠いっぱいのりんごをセザンヌに届けました。そこからふたりの友情ははじまりました。

「いつかりんごひとつでパリを驚かせたい」。
生涯で制作した200点のうち、60点以上もの作品にりんごを描いたセザンヌ。のちに批評家から「りんごの画家」と賞賛されるほどにセザンヌがりんごを題材に選び続けたのは、ゾラとの深い友情があったのかもしれません。



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ポール・セザンヌ《りんごとオレンジ》1899


セザンヌの描くりんごは美味しそうで食べたくなるようなものではなく、心奪われるようなかたちと色彩を持った美しいりんごだ。
   タデ・ナタンソン(美術批評家)



境遇は違えど、ともに芸術家となる夢で結ばれていたふたり。セザンヌに送られたゾラからの手紙には、「僕が小説を書き、君がそこに挿絵を描く。その本の表紙には、ふたりの天才芸術家たちの名が金字で刻まれているんだ」と。なんて微笑ましくも大胆な夢なのでしょう。互いの存在を励みに、切磋琢磨しあうふたり。交わされる手紙に綴られた言葉は、ときにまるで愛の告白のようにも思えるほどで。

けれど一足先にパリにやってきて、少しずつ作家として芽を出し始めたゾラと、落選を繰り返し不満を溜め込むセザンヌの間では、たびたび衝突が起こります。人付き合いが不得意なセザンヌは、次第に画家仲間の輪からも孤立していきました。

正直、この映画を見ていちばん驚いたのは、このセザンヌの人となりでした。荒々しく挑発的で、すぐに無粋なことを言い人を怒らせてしまう。気に入らないことがあればすぐにキャンバスを割り、辛抱強くつきあってくれたモデルの前で作品に絵の具をぶちまける。セザンヌの作品から、冷静で実直に物事を積み上げていく人という勝手な印象を抱いていたので、これは新鮮な驚きでした。32回ものポージングの変更にも耐えたゾラの肖像画も、本人の目の前で破り捨ててしまいます。
うん、めんどくさい人だ。笑


当時、セザンヌや印象派たちへの風当たりは厳しいものでした。マネの《草上の昼食》も「肌が青くておかしい」「女の裸を見たことがないのか」と酷評が寄せられます。そのころ新聞で評論を書いていたゾラはマネを擁護しますが、セザンヌはそれも気に入らなかったようで。「悪口を言われるだけマシじゃないか、俺は話題にすらならない」。



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エドゥアール・マネ 《エミール・ゾラの肖像》1868

マネもゾラを描いています。こちらは破られていません。笑



離れても行き来し、ゾラは「きみは天才だ」といい、セザンヌは「ゾラのように描きたい」という。ぶつかり合い、語り合いながら強い絆を結んできたふたりの芸術家の間に、あるとき大きな亀裂がはしります。きっかけは1886年に出版されたゾラの『制作』でした。


『制作』

主人公は画家クロード・ランティエ。
サロンにまったく相手にされないランティエは、故郷に引きこもり制作に没頭するが、思うような結果が出せず苦悩する日々を送っていた。ランティエは次第にこころを病んでいき、孤独の中で、理想の女を描くことに取り憑かれていく。モデルとなった妻は、いつしかランティエが自分ではなく絵の中の女ばかりに魅了されていることに気づき、その絵を破棄して欲しいと懇願するが、聞く耳を持たない。ついにランティエは未完の絵の前で首をつって自殺する。



なんとも救いようのない暗い話です。セザンヌにとっては身の覚えのあることばかりで、この小説がセザンヌをモデルにしているのは明らかでしょう。

ゾラがこの小説をセザンヌに送りつけ、セザンヌから他人行儀な返信が届いて以降、セザンヌとゾラの間で手紙のやりとりは途絶えてしまいます。そこから2年後ーー。映画冒頭の再会シーンへとつながります。

なぜ自分をモデルに、あんなにも惨めな画家を描いたのか。なぜ画家を殺したのか。いちばんの理解者である君が、なぜ、なぜ、なぜ。激昂して詰め寄るセザンヌに、あれは君だけがモデルなのではない、あらゆる芸術家がモデルになっている。あれはわたしでもあるのだ、作品を生み出す苦悩と恐怖に怯えるわたし自身の姿なのだと言い返すゾラ。そしてふたりの決別は決定的なものになりました。


正直、なぜゾラが制作のモデルをセザンヌにしたのか、映画を見てもわかりませんでした。小説を読めば、セザンヌが(誤解であろうと)傷つくであろうことはわかっていたはず。ゾラはこの小説を書くことを20年前から想定していたというけれど、その本心はなんだったのだろう。


じつはこの再会シーンは監督の創作なんだそうです。《制作》発表後、セザンヌからの手紙を最後にふたりは絶縁したと言われているけれど、もしふたりがもう一度会っていたらどうだっただろうか。そんな思い付きからこの映画の構想ははじまったそうです。まあ、結局ふたりは会っても決別してしまうんですが。けれど、その”再会”にはぶつかり合うだけではない、ちいさい頃から時間をともにしてきたからそこの寄り添いもあり、流れた時間の重さを感じさせました。

友情というのは愛以上に面倒なもの、とは監督の言葉です。「人生というのは、瞬間瞬間によって矛盾する感情がいろいろと形を変えていくもの。だから、この人とはすごく近く感じるなと思うときもあれば、やっぱり気持ちが離れてしまったと思うときもある。そういう風に揺れ動きやすさの幅は愛情よりも友情の方が大きいんじゃないか」。そう、まさに!ゾラとセザンヌを見ていると、友情とも愛情とも言えるような不思議な結びつきや信頼があり、ねじれあいながらも共鳴し、それらすべてが創作の原動力となって、人生のキャンバスに彩りをあたえているのだということがひしひしと伝わってきます。



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ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山》1904


セザンヌといえば、現代美術の礎を築き、多くの画家たちに影響を与えた人物です。世界中どこの美術館へ行っても、セザンヌと出会わない事はありません。けれど、そのような正当な評価を得たのは晩年になってからの話。そこに至るまで、苦悩し葛藤しながらも、忍耐強く己の描きたいものを貫きつづける日々がありました。

この映画の原題は、‶Cezanne et moi”(セザンヌと私)。そのタイトルが示すとおり、ゾラから見た一人の人間としてのセザンヌの姿が描かれています。はたから見たら、愛想が悪く、媚びず、感情的で頑固すぎるところもあったでしょう、けれどそれがあってのいまの画家セザンヌがあるのだと深く納得するとともに、それゆえ失われてしまったかけがえのない友情があることを思うと胸が痛みました。



アーティストは一人ではなれない。たった一人でいいから、アーティストの親友が必要なんだなぁ、多分。
   片桐仁さん(俳優・彫刻家)





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(C)2016 - G FILMS - PATHE - ORANGE STUDIO - FRANCE 2 CINEMA - UMEDIA - ALTER FILMS


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2017.07.20 [Thu] + Art/Design +
「戦国!井伊直虎から直政へ」展@江戸東京博物館

江戸東京博物館で開催中の 「戦国!井伊直虎から直政へ」展にいってきました。

この展覧会はNHKで放映中の大河ドラマ「おんな城主 直虎」と連動したものです。
主人公である井伊直虎の波乱に満ちた生涯を中心に、遠江の井伊家がどのように戦乱の世を生き抜き、そして江戸幕府の重臣の地位を獲得していったのか。その過程を周辺の人物や貴重な美術品・古文書を通して知るよい機会になりました。



◆ 直虎の生きた時代


ときは戦国、名だたる武将たちがを領土拡大を目指し、戦いに明け暮れた時代。遠江国井伊谷にて、今川氏に従属していた当主の井伊直盛には娘しかいませんでした。そこで、一族の亀之丞(のちの直親)を将来の婿として迎えることを決めます。
しかし、亀之丞の父・直満が謀反の疑いで今川義元に殺されたことでその状況は一変。その刃は亀之丞にも向けられ、危険を感じた亀之丞は南信濃の松源寺へと身を隠します。離れ離れになるふたり。

「井伊家伝記」によれば、直盛の娘はこのときの悲しみのあまり龍潭寺に出家し、以後「次郎法師」と名乗ったとあります。その「次郎法師」こそ直虎ではないかと言われています。


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《井伊家伝記》享保十五年


その逃亡劇から10余年あまり。井伊谷に戻ることを許された亀之丞は、帰国途中で六所神社に立ち寄り、愛用していた横笛を奉納しました。
大河ドラマでもおなじみのアイテムですよね。


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《青葉の笛》戦国地代


亀之丞は直盛の養子にはいり、直親と名乗るようになります。
直親は別の女性と結婚しますが、なかなかなかなか世継ぎの男子に恵まれません。そこで井伊氏に代々伝わる世継観音像に子授け祈願をします。そうして生まれたのが、のちに徳川家康の重臣となる直政でした。


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《世継観音》戦国時代 十六世紀


最近の調査で、観音像を安置する厨子の背面に「井伊次郎法師」の文字が記されていることが判明しました。


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引用:龍潭寺 観音像の厨子に“次郎法師”の文字 大河ドラマ「おんな城主 直虎」ご当地サイト|NHK静岡放送局


『「次郎法師」が天正3年にこの観音像を、井伊直親を弔うため大藤寺に奉納した』と記されています。井伊家の歴史の史料に「次郎法師」という名前が残されているケースは珍しいんだそう。


1560年、桶狭間の戦いで今川軍に従軍した当主の直盛が討死にし、その後を継いだ直親も、徳川家康との内通の疑いがかけられ殺害されてしまいます。家督を継げる一族のものたちが次々と亡くなり、残されたのは直親の幼子、虎松(のちの直政)のみ。
一族断絶の危機に追い込まれた井伊氏は、出家していた次郎法師を虎松の後見人にたて、家督代行者とします。女城主の誕生です。


『次郎法師』が同国の国衆・井伊氏の事実上の当主を務め、「女地頭 *」と呼ばれた。
  ーーー「井伊家伝記」より


*この時代の「地頭」は「領主」という意味



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《井伊直虎・関口氏経連署状》永禄十一年十一月九日

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部分


直虎という人物がいまだ多くの謎に包まれている理由のひとつは、直虎に関する資料の少なさにあるでしょう。その中でも、直虎の名と花押(現在のサインのようなもの)が見られるのはこの書状のみ。直虎の存在を語るとても貴重な資料です。

月並みな言い方になりますが、本当に直虎という人物がいたんだなあと感慨深くなりました。花押からは筆の運びまで見てとることができます。



◆ そして時代の流れは直政へ


時は経ち。成長した直政は、徳川家康の家臣に取り立てられます。
幾多の抗争を経て、天下人となった徳川家康ですが、その影には有能な家臣たちによる功績がありました。とりわけ、「徳川四天王」の存在は欠かません。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ーーー直政の名がそこにありました。


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《朱地井桁紋金箔押旗印》桃山時代 十六世紀
《朱漆塗紺糸威縫延腰取二枚胴具足》桃山ー江戸時代 十六十七世紀


家康は直政を隊長とする部隊に、甲冑・武器類を朱色で統一させます。いわゆる井伊の赤備えです。鮮やかな朱色に金の組み合わせはいまなお美しく、戦場ではどんなにか目立ったことでしょう。

赤備えの鎧を身につけて敵方に猛然と攻め込んでいく直政の姿は「井伊のあか鬼」と呼ばれ、恐れられるようになります。


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《関ヶ原合戦図屏風》江戸時代後期


関ヶ原の戦いにおいて、直政は本戦で活躍するだけではなく、事前に豊臣方の諸将を味方に引き入れたり、戦後の交渉でも徳川方の代表として諸大名と交渉にあたるなど、多大な貢献を果たします。その働きぶりは高く評価され、井伊家の基盤は揺るぎないものになっていくのでした。




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2017.07.14 [Fri] + Art/Design +
タイ修好130周年記念特別展「タイ ~仏の国の輝き~」展@東京国立博物館

東京国立博物館で開催中の「タイ ~仏の国の輝き~」展にいってきました。今回の展覧会は、タイ文化の中でも特に仏教美術について掘り下げたものとなっています。

タイは、国民の95%が仏教を篤く信仰する仏教国です。その結びつきの深さは「国王は仏教徒であること」と憲法で定められていることからもよくわかります。タイの歴史や文化を語る上で、仏教の存在を抜きにして語ることはできません。



⬛︎ タイの仏像の変移


まず驚いたのは、初期の仏教美術において仏像は存在しなかったという事実です。仏陀は人間の姿で表されるのではなく、法輪や仏足跡などの象徴表現によってその存在が示されてきました。


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手前:《法輪》ドヴァーラヴァティー時代 7世紀
奥:《法輪柱》ドヴァーラヴァティー時代 7世紀


法輪には、車輪が転がるように仏陀の教えが広がるようにという意味がこめられています。ほどこされた植物文様からは万物の成長や豊穣を支える太陽への信仰心も見て取ることができ、単に仏陀の存在の暗示というだけではなく、自然への敬意の対象としても崇められていたようです。


タイの仏教旗、ダルマチャクラ旗にも法輪が描かれてますね。


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参考:wikipedia


実際に仏像が作られはじめるのは、仏陀が亡くなってから500年以上も後、1世紀に入ってからになります。

時代を追って見ていくと


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左:《菩薩立像》ドヴァーラヴァティー時代 7世紀


初期の仏像は主に漆喰やテラコッタでできています。首や腰をひねり足元へ視線を落とすポーズや、頭部の豪華な冠の装飾からは、インド仏教の影響が見受けられます。まだまだ表情は乏しく、仏像というよりは、壁画や仏塔の装飾に近いような印象を受けました。


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《観音菩薩立像》アンコール時代12世紀末-13世紀初


がっしりとした体つきや角ばった顔つき。口角をあげつつもぎこちなさを帯び、親しみやすさよりどこか近寄りがたさがありました。遠目には鎧のようなものを着ているように見えますが、上半身を埋め尽くしているのは小さな仏たちです。これはカンボジアのクメール美術に見られる特徴になります。


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《仏陀遊行像》スコータイ時代 14-15世紀


はじめて王朝が誕生したスコータイ時代。国内が安定し、現在のタイ文化の基礎が築かれます。
卵型の輪郭、両耳は先端と耳たぶの先がやや外向きに広がり、伏目でやわらかな笑みをたたえ、頭には火焔飾り、と、これぞ典型的なスコータイ様式。なめらかな曲線を描く体つきはとても優雅で美しく、まるでタイ舞踏のよう。だいぶ洗練された印象を受けました。

遊行仏とはその名の通り、仏陀が歩くさまを捉えたもので、この時代から広く見られるようになります。


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《仏陀坐像》アユタヤー時代 16-17世紀

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《宝冠仏陀坐像》アユタヤー時代 17-18世紀


アユタヤーはは地の利を活かし、400年にも渡り長く交易都市として賑わい、莫大な富を得た栄華の時代。この頃から台座や装飾がぐっと華やかになり、歴史を知らずともその時代の繁栄を想像する事ができました。国王はその権力と神聖さを高めるために、仏教との結びつきをより強くしていきます。結果、王族のものをかたどった豪華な宝冠や装身具を身につける宝冠仏が登場します。


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《仏陀涅槃像》ラタナコーシン時代 19世紀


ラタナコーシン時代では、アユタヤーの頃のような華美な装飾は消え、シンプルなデザインが好まれるようになります。肩や腰廻りは細くなり、顔つきをふくめ、以前の仏像たちと比べるとだいぶ中性的になってきたように感じました。表情もいっそう人間らしく穏やかさを増し、たたえる笑みは見ているだけで癒されます。さすが「微笑みの国」タイの仏像ですね。

この時代はこのように横臥し穏やかに瞑想する涅槃像が多くつくられるようになりました。てっきりくつろいでいるのかと思っていたのですが、そうではなく、「入滅(釈迦・菩薩・高僧などが死ぬこと)」の様子を表しているのだそうです。目が開いてるものは、入滅前の最後の説法中で、目を瞑っているものは、まさに入滅の瞬間をとらえたもの。

余談ですが、基本的に涅槃像の頭は北向き、顔は西向きとされています。これがのちに俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由来なんですって。知りませんでした。


まだまだほんの一部ですが、こうして時代ごとの仏像を比べてみると、その長い歴史の中で、仏像の顔だちや造形が世相や隣接する文化の影響を受け変化しているのがよくわかります。これほどのタイ仏像が集まる機会はそうそうないので、とても勉強になりました。



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2017.07.07 [Fri] + Art/Design +
【特別展】没後50年記念「川端龍子 ー超ド級の日本画ー」展@山種美術館

山種美術館にて開催中の「川端龍子 ー超ド級の日本画ー」展にいってきました。


若くして挿絵画家として人気を獲得していた川端龍子(かわばたりゅうし)。洋画家を目指し渡米するも、ボストン美術館で見た《平時物語絵巻》に深く感銘を受け、帰国後は一転して日本画家の道へ進みます。しかし生み出されたのは、大胆な発想と迫力で観るものに訴えかけてくる作品たちーーー当時日本画の主流であった繊細で巧緻な画風とは程遠く、「会場芸術だ」と批判を受けました。しかし龍子はその言葉を逆手に取り、時代性を反映し、展覧会などの会場で鑑賞者に直に訴えかける「会場芸術」を自らの理念とし、生涯制作に励みます。


「近代日本画の異端児」「在野の巨人」などと呼ばれ、自らを龍の落とし子=「龍子」と名乗る人物による、鑑賞者に直に訴えかける「会場芸術」。となれば、さぞや豪胆でダイナミック、いまにも飲み込まれそうな迫力に満ちたものに違いないと身構えていたのですが、会場に足を踏み入れてみれば、感じたのは押し付けられんばかりに発せられるエネルギーではなく、その逆で、観るものを引きつけてやまない魅力でした。



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《龍巻》1933 大田区立龍子記念館


約3.5メートルにもなる大作。上に下にうねる波、まるでいまにも頭上を通り過ぎていくかのようにいきいきと描かれた生き物たち。見上げるほどのその絵の前に立つと、まるで水族館の巨大水槽を覗き込んでいるような錯覚を抱きます。この作品は、描いている最中に天地を逆にしてみたらどうだろうと思いつき、このように仕上がったものだそうで、感じる独特の浮遊感はそのように描かれた作品だからなのかもしれません。



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《夢》部分 1951 大田区立龍子記念館


ミイラと蛾という幻想的なモチーフ。
昭和25年、平泉の中尊寺金色堂に安置されていた藤原氏4代の遺体の学術調査が行われたと聞くや否や龍氏は現地取材を行い、この作品を完成させました。ミイラの姿はぼやけ、焦点はその周りを舞う美しい蛾たちへ。まるでそのミイラというさなぎから生まれた蛾なのか、その蛾はミイラという蛹からあらたに生まれた新しい生なのか、あるいはミイラの見る夢や生前の記憶なのか、はたまた色とりどりの蛾が舞うその幻想的な情景こそが白昼夢なのか。想像が掻き立てられます。



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《香炉峰》1939 大田区立龍子記念館


7メートルにもなる大画面から、はみ出すほどに描かれた飛行機。けれどその機体は半透明であり、背景の香炉峰が透けています。わざわざ偵察機に乗せてもらってまでこの絵を描いた龍子ですが、なぜこのような表現にいたったのか。いわく、「日本画の範囲において飛びつつある飛行機をどう、どこまで表現し得」るかが課題だったそうですが、いくら考えてもわかりませんでした。けれど気になってなんども戻ってきてしまう。この圧倒的な個性たるや。



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《百子図》1949 大田区立龍子記念館


第二次世界大戦後、「象を見たい」と東京のこどもたちがインドに手紙を送ったところ、象の「インディラ」がやってきた!港から上野動物園まで首に鈴をつけた象が歩いたというエピソードに触発されて描いたもの。こういう時事ネタにいちはやく反応して絵にするところはさすがです。カラフルで明るく、コミカルなタッチは挿絵画家をしていた経験が生かされているのでしょう。無邪気に触れ合うこどもたちと、インディラのよく見ればシュールな表情のコントラストもおもしろくて。



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